随筆:二期会が燃え落ちそうになった話 |
それは今から40年も昔、1973年の頃。私はNHKのテレビ音楽番組ディレクターだったが、当時、二期会の理事長だった中山悌一さんからのご依頼で、「NHKの仕事に支障を来たさない範囲で」との条件付きで、週二回程度、午後六時過ぎから、当時、小田急線の南新宿駅の横にあった二期会へ駆けつけ、そこでのオペラ・スタジオ研究生の演技指導教官を務めていた。
担当したのは出口正子さん、山路芳久君、池田直樹君達のいた19期生から41期生迄だから二十数年間に及ぶが、その間に私は研究生に演技をつけ教えることによって、逆に私自身がどれ程、オペラにおける演技を勉強し学び取ることが出来たか計り知れず、この場を与えてくれた二期会には深く感謝している。
それは1978年6月22日の夜、私は二期会の一階にあった第2スタジオで、多分、22期生だったと思うが、研究生に「フィガロの結婚」の演技をつけていた。音楽指導教官は高橋大海さんと沢田文彦さん。ところが、生徒の一人が突然、叫んだ。「先生! 後ろの窓が真っ赤です! 火事だ!」、驚いて振り向いたら、まさに背後の窓ガラスが真っ赤に染まって、炎のようなものがメラメラと揺らいでいる。 急いで窓を開けて見たら、3、4メートルも離れていない隣家がボウボウ燃え、窓から炎が噴き出し、火の粉が舞い上がり、二期会の建物に降り注ぎ始めていた。 私はとっさに、生徒に「消防署に電話しろ! ホースか、バケツか、消火器を持って来て!」と叫び、背広の上着を脱いで、窓の外へ飛び降りた。生徒の何人かが続いて降りようとしたが、「君達は来るんじゃない!
危険だ! それより、ホースを持ってきて水道の蛇口につけて! 消化器があったら、 持ってきて! 火の粉が飛び込むから、窓は閉めて!」と叫んだ。
消火器が届き、私はそれを担いで、隣家に向かい使用指定に従い、ひっくり返しにして、勢いよく噴き出した液体を、隣家の窓口に向けて注ぎかけた。炎は見る見る勢いが失せて行ったが、何と、三、四分もしたら、消火器の液体が空っぽに。えーっ、こんなに早く無くなるものなのか、と呆れている暇もない。取り替えた消火器を受け取って、隣家の窓の方へ駆け寄ると、弱まった炎が反撃に出るように、前より勢いよく私に向かって火の粉と熱気を吹き付け、煙に巻かれて窒息すると言うのは、このことか、と思い知った。教室の窓を開いて、首を突っ込み、ハアハア大急ぎの深呼吸をしては、また火に立ち向かった。それでも胸から喉にかけて煙っぽく、熱くカラカラになったので、生徒に「タオルを湿らせて持ってきて!」と頼み、マスクのように口に結びつけて、また、火に向かった。生徒や事務局員も別の窓から消火器や水道栓に繋げたホースでしょぼしょぼと隣家に水を注ぎ始めた。しかし、小さい窓に向かって水を注ぐぐらいでは、家の中の火の勢いは収まらず、やがて、火が天井を焼き飛ばして突き抜けると、途端に、火の勢いがどっと増した。生徒達が口々に叫んだ。「杉先生! 引き返して下さい! 危ない! もう駄目です!」と。それでも、私は意地になって、四本目の消火器を手にして、今度は、類焼するのを防ぐため、二期会のモルタル壁に向かっても吹きかけた。
隣家の二期会側の火勢は、やや衰えてきたように見えたが、反対の部分は、まだまだ燃え盛っていた。その頃になって、やっと何台かの消防車のサイレンが鳴るのが聞えて来て、二期会とは反対側の道路から一斉に何本かのホースによる注水が始まり、忽ち、火の勢いは急速に収まって行った。
やれやれ、私は第2スタジオの窓をよじ登り、室内に戻った。室内では他の教官や生徒や事務局員が、書類の入った戸棚をがたがた濡れの少ない方へ移動させていた。
私は消化剤と水とでびしょびしょ、どろどろになったシャツとズボンを着替え、消化剤は直ぐ洗い落とさなければ、生地が傷む、と誰かに言われたので、急いで水で濯いだ。
火元を見ようと屋上に登ったら、別クラスの教官だった宮原卓也さんが、まだ隣家に向け消火活動をしていた。 三階に降り、第4スタジオの窓から火事の現場を見下ろしたら、それは二期会と反対側の道路に面した風呂屋、銭湯で、脱衣所と風呂場に続く焚き口のある住居部分が火元のようだった。黒焦げになった何本もの柱の間を縫ってホースが四方八方に伸び、銀色の装束を身につけた消防士が縦横に駆け回り、徹底的に残り火を消し回っていた。
一段落して、皆から「杉さんのお陰で、類焼を免れた。」と言われ、何だか、そんなような気もしてきた時、二期会の取引先だったのか、相互銀行から、火事見舞いの日本酒一升ビンが届き、皆と一緒に冷や酒で乾杯、「本日の授業はここまで!」と言って帰途についた。
後日、二期会からは感謝の言葉と共に洗濯代を頂戴した。
ニュー・オペラ・プロダクション 代表 杉 理 一